前話で辿り着いた、自然の力。それは、どこに宿るのでしょうか。
間に、自然の力は宿る
その関係性が入り込む場所を、私は「間(ま)」と呼びたいと思います。
音楽の間がなければリズムが死ぬように、體と大いなる自然の間、都会の人と月の間、この間にこそ、自然の力は宿ります。
間の中に、自然の力は宿る。
自然の力が働きやすい環境の體は、結果、美しい。
筋肉の繊維の間がなければ、血管やリンパや神経枝は圧迫され、循環は鈍ります。循環が鈍ることで、ターンオーバーの質が下がる。肌の角質は、押し潰されそうな筋膜の間からの、體のサインなのだと思います。
神経枝の圧迫は、それだけに留まりません。痛みという形で現れることもあれば、伝達そのものが妨げられ、動作の滑らかさを奪うこともあります。凝り、痛み、動きにくさ——これら全部、根っこは同じ「間の圧迫」なのかもしれません。
不調とは、慢性的な緊張。
慢性的な緊張とは、間が失われること。
美しさは、目的にできません。「美しくなろう」として體を作ることはできない。できるのは、間に自然の力が働きやすい状態を用意すること——つまり、整えることだけです。美しさは、その副産物として、後からついてくる。
黄金比という数字も、本来は自然の副産物にすぎません。それを後から目標として體に当てはめようとした瞬間、間は塞がれ、自然の力は働けなくなります。
美しいか、見苦しいか
昔の日本人は、まさに「美」を追求する民族でした。
物事を、正しいか悪いか、では判断しない。美しいか、見苦しいか、で見る。「すがるは見苦しいぞ」——これは絶対的な規範ではなく、観測者との間に立ち現れる判断です。清らかか、穢れか。穢れとは、氣が枯れること、循環が滞ることだとも言われます。
正邪が個人の内側だけで完結するのに対し、美醜は常に、観測者と対象の「間」で立ち現れます。分断されたどちらか一方を見るのではなく、その間に残された僅かばかりの間を、釣り合わせる。
お互いの軸を尊重しつつ、軸と軸の間を釣り合わせること。これは、日本という文化の中で大切に伝えてきた技術であり、感性です。世界から、清らかさを求め、空気を読むことができる民族として称賛されるのだとしたら、それは民族の優劣ではなく、大切に受け継いできたものそのものが、誇りなのだと思います。
次話では、なぜ多くの挑戦がうまくいかないのか、その理由に触れていきます。

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